多数被災された欧美関係の作家のお一人である陸前高田の熊谷睦男氏は、山の中腹にお住まいのためかろうじて難をのがれられました。
はじめに
20011.4.5記
2011〈平成23〉年3月11日午後2時46分未曾有の大地震に見舞われました。“立っていられない強震、長い揺れ、途中電気が消えた。いくらか収まりかけたので、外へ飛び出した。瓦が落ちている。するとまた大きな揺れがあり、家が左右に大きく揺れている。崩壊するのでは、と思えるほどの強い揺れ。ようやく収まって、家の中を見たら、戸棚の食器類が落下して一杯に散乱していた。また、余震がきた。とても家の中に入ることができず外で待機した。”当時の状況です。
地震発生からどれくらいの時間かは分かりませんが、我が家の庭から見える南西の山に霧がかかったようになり、瞬く間に上手北側の方へ進み山が見えなくなりました。急に霧がかかるなんて、と思ったのですが、後にそれは巨大津波の襲来とそれが気仙川を遡上した時の飛沫だったと分かりました。
テレビ等で報道されているとおり、当地陸前高田市は名勝・高田松原をはじめ中心市街地と海岸に面した集落全て、気仙川流域の集落が河口から5㎞にわたって壊滅し、8㎞の上流まで瓦礫を押し流していました。沿岸地域全体のライフラインが全て絶たれました。
明治29年、昭和8年そして昭和35年のそれぞれの津波では予想もできない巨大津波被害でした。
昭和35年チリ地震津波後に、三陸海岸は長い年月と巨費を投じて漁港整備や7mから10mの防潮堤や防波堤で万里の長城のように防災対策がとられてきましたが、今回の津波には何の効果も発揮できずに壊滅しました。自然の恐るべきエネルギーに人為を尽くしたはずの文明が全く無力に等しかったという印象でした。自然に対する人類文明の奢りだったのでしょうか。
電気は、市災害対策本部と第一中学校避難所を中心としたエレアに3日目に回復し、そのエレア内に入っているおかげで、我が家にも電気が回復しました。
しかし多くの周辺地域は当分不通のままで、急ピッチで中山間地の農免道を新ルートに電柱の立て替え作業が進められています。
水道は、貯水タンクが破壊したとかで、市内全域復旧の目途が立っていません。水がないので炊事ができない、トイレが使えない、風呂にはいれない。電話が遮断されて連絡がとれない。ガソリン不足で車が使えない。灯油がないので暖房器具が使えない等々。
文明の利器の悲しさは、ライフラインが途絶えて痛切に感じます。自然と共に人為で人力で柔軟な生活ができた昔が懐かしく思われます。
震災から3週間が過ぎた現在ですが、未だに震度3から4クラスの余震が続いております。
国や自治体、自衛隊そして多くの方々の救援により、主要道路の瓦礫が撤去されて支援物資の輸送や避難所の連絡が可能になりました。
ガソリンや灯油も需要に応えられるようになり、支援物資の供給も行きわたるようになってきました。
地盤沈下により、海が広がる状況も見られます。当陸前高田市の復興はできるのだろうかという将来に対する不安は拭い去ることはできません。しかし、多くの人々の善意に支えられて前向きに復興への思いを馳せることが大切であると思っています。
この冊子は、故郷の被災地の状況を少しでも詳細に記録しようとカメラ・ルポし、在京の友人・知人に提供した写真画像を、ダイジェストにまとめたものであることを申し添えます。
はじめに
20011.4.5記
2011〈平成23〉年3月11日午後2時46分未曾有の大地震に見舞われました。“立っていられない強震、長い揺れ、途中電気が消えた。いくらか収まりかけたので、外へ飛び出した。瓦が落ちている。するとまた大きな揺れがあり、家が左右に大きく揺れている。崩壊するのでは、と思えるほどの強い揺れ。ようやく収まって、家の中を見たら、戸棚の食器類が落下して一杯に散乱していた。また、余震がきた。とても家の中に入ることができず外で待機した。”当時の状況です。
地震発生からどれくらいの時間かは分かりませんが、我が家の庭から見える南西の山に霧がかかったようになり、瞬く間に上手北側の方へ進み山が見えなくなりました。急に霧がかかるなんて、と思ったのですが、後にそれは巨大津波の襲来とそれが気仙川を遡上した時の飛沫だったと分かりました。
テレビ等で報道されているとおり、当地陸前高田市は名勝・高田松原をはじめ中心市街地と海岸に面した集落全て、気仙川流域の集落が河口から5㎞にわたって壊滅し、8㎞の上流まで瓦礫を押し流していました。沿岸地域全体のライフラインが全て絶たれました。
明治29年、昭和8年そして昭和35年のそれぞれの津波では予想もできない巨大津波被害でした。
昭和35年チリ地震津波後に、三陸海岸は長い年月と巨費を投じて漁港整備や7mから10mの防潮堤や防波堤で万里の長城のように防災対策がとられてきましたが、今回の津波には何の効果も発揮できずに壊滅しました。自然の恐るべきエネルギーに人為を尽くしたはずの文明が全く無力に等しかったという印象でした。自然に対する人類文明の奢りだったのでしょうか。
電気は、市災害対策本部と第一中学校避難所を中心としたエレアに3日目に回復し、そのエレア内に入っているおかげで、我が家にも電気が回復しました。
しかし多くの周辺地域は当分不通のままで、急ピッチで中山間地の農免道を新ルートに電柱の立て替え作業が進められています。
水道は、貯水タンクが破壊したとかで、市内全域復旧の目途が立っていません。水がないので炊事ができない、トイレが使えない、風呂にはいれない。電話が遮断されて連絡がとれない。ガソリン不足で車が使えない。灯油がないので暖房器具が使えない等々。
文明の利器の悲しさは、ライフラインが途絶えて痛切に感じます。自然と共に人為で人力で柔軟な生活ができた昔が懐かしく思われます。
震災から3週間が過ぎた現在ですが、未だに震度3から4クラスの余震が続いております。
国や自治体、自衛隊そして多くの方々の救援により、主要道路の瓦礫が撤去されて支援物資の輸送や避難所の連絡が可能になりました。
ガソリンや灯油も需要に応えられるようになり、支援物資の供給も行きわたるようになってきました。
地盤沈下により、海が広がる状況も見られます。当陸前高田市の復興はできるのだろうかという将来に対する不安は拭い去ることはできません。しかし、多くの人々の善意に支えられて前向きに復興への思いを馳せることが大切であると思っています。
この冊子は、故郷の被災地の状況を少しでも詳細に記録しようとカメラ・ルポし、在京の友人・知人に提供した写真画像を、ダイジェストにまとめたものであることを申し添えます。